このブログを検索

2013年11月14日木曜日

体罰と師弟関係

ドイツ哲学者オイゲン・ヘリゲルが、自身の鍛練を通じて日本武道の稽古に見る独自性を書いた「弓と禅」では、
「師の体現する『型』の模倣に全身を投げ入れることで、その世界観を体得する」ということが書かれています。
そのため、師のいうことは絶対視されます。

日本芸能における「わざ」の認知について研究した生田久美子は、「<わざ>から知る」の中で、フランスの文化人類学者マルセル・モースの研究で用いられた「威光模倣」という言葉を使って同様のことを説明しています。

音楽という世界を<身体>に着目して描いた岡田暁生監修の「ピアノを弾く身体」の中の第3章「鍵盤を『打つ』指」のように、なぜ「ハイフィンガー奏法」という技法が日本で浸透したのかを、上記のような日本の師弟関係から説明した面白い論考もあります。

つまり、「芸事を極める」という考え方が、「野球道」という考えにも影響し、「師は絶対」という部分だけが取り出された可能性も考えられるということです。


あるテレビ番組で、大阪体育大学での取り組みが放映されていました。インタビューでは、「強くなるなら体罰もしかたないという考え方は、自分のなかにある」と率直に認める学生の姿もありました。自分が体罰を受けた大学生ほど、体罰を肯定しやすいという調査もあります。
大阪体育大学では、学生同士に「どんなコーチになりたいか」という意見を交流するなかで、「コミュニケーション能力の重要性」に気づく「場」を作っている点が取り上げられていました。

概念を見直すことで方法論も変わる、ということなのだと思います。

余談ですが、「ドラゴン桜」の筆者が、高校野球を題材に連載している「砂の栄冠」は、監督のいうことはほどほどに、選手が時に功利冷徹に自分で考えてプレーする姿が書かれていて面白いです。別の作者の「ラストイニング」なども、選手が自分で考える、ということがテーマとされており、興味深いです。

http://hoshiboshi.blogspot.jp/2013/07/vol11-no11.html

0 件のコメント: